HOME

図書新聞経済時評1998.4.

 

経済改革の思想的争点

――四つの経済思想的立場

 

橋本努

 

 景気対策、金融ビックバン、大蔵改革。これら三つの複合問題に対する保守派と進歩派の思想的対立点は、次のようにまとめられる。

 保守派によると、構造改革論者たちは、「金融ビックバンを急がなければ日本は取り残される」と危機意識を煽りすぎている。しかしそのような歴史的大転換など、実際にできるはずがない。できもしない構造改革論を主張することは、かえって経済を混乱させる。今なすべきは、景気対策であって構造改革ではない。構造改革を急ぐなら、日本経済が築いてきた「信頼」関係をいたずらに崩してしまうだけであろう。むしろ改革を遅らせ、日本的経営慣行を保守すべきである(佐伯啓思「危機の元凶 妖怪Xについて」『諸君』三月号)。

 こうした主張に対して、進歩派の論客は、大蔵省主導の護送船団方式に批判の矢を向ける。それによると、@「信用」を低下させたのは大蔵省による金融統治の失敗である。Aいまの政府と大蔵省には信頼を回復する能力などない。B銀行への公的資金導入のあり方は、護送船団方式を復活させるものであり、望ましくない。C金融当局は、預金者保護に徹すればよいのであり、それで金融破綻は防げる(高橋伸彰「『信用』を低下させたのは誰だ」『中央公論』三月号)。D大蔵官僚たちは、その傲慢な統治意識と慣行を改め、統治者に使われる立場であることを自覚すべきである(対談「大蔵官僚の『人類史上稀有』なる傲慢」田中秀征/佐高信『現代』四月号)。このように進歩派は、「これまでのような慣行ではやっていけない」という危機意識を煽り、大蔵省の権限縮小と明確なルール作りを促している。

 保守派と進歩派の争点は、危機意識を鎮めて大蔵主導による経済安定化を進めるか、それとも、危機意識を煽って大蔵省の権限縮小と金融構造の抜本的改革を急ぐか、という点にある。しかしどちらの立場をとるにせよ、国民的な合意を形成しうる明確なビジョンを描くことは難しい。難しいからこそ、「グローバル・スタンダード」という分かりやすい意見に収斂していくことになる。

 グローバル・スタンダードというのは、アングロサクソンの文化であって、けっして世界的な標準ではない。しかしその魅力の一つは、信頼関係の作り方にある。料亭の密室で接待するのではなく、パーティーやコンファレンスにおいて公開的・社交的に人脈作りをする。これによって、危機に対処しうる信頼・協調関係を作っていく。日本のシステムもこうした社交的な要素を大いに取り入れて、信頼の性質を変えるべきであろう(榊原英資「大蔵相だけが悪いのか」『中央公論』三月号、聞き手・田原総一朗)。

 もっとも、グローバル・スタンダードというだけでは「ビジョン不足」である。ビジョンに求められているのは、経済システムにおいて日本が勝つ(負けない)という国家理念、あるいはそのシナリオである。ビジョンなき金融ビックバンは、国家理念なき自由化であり、自由放任の世界を招くだろう。これに対してビジョンを求める声は、国際金融における日本の勝利というナショナルな関心に基づいている。

 仮にもし、金融ビックバンによって米系の金融機関が日本を支配すると予想されるなら、話は単純である。そのような覇権を許す金融の自由化を認めるか(「リバタリアン」)、それとも覇権に抵抗して金融鎖国状態にとどまるか(「反自由主義的国家主義」)、いずれかである。しかし暗黙裡に求められているのは、金融を自由化しながらアメリカの覇権を阻止し、日本の金融業界が世界的に通用・発展するということだ。

 そのようなシナリオなどなくても、例えば都銀上位行は自由競争に勝ちぬくかもしれない。そうであれば、楽観的な「自由主義的ナリショナリズム」の立場を取ることができる。しかし事態はそれほど甘くないだろう。むしろ大蔵省が一定の銀行を選別して指導しないと、日本の銀行は金融ビックバンによって総崩れするのではないか。もしそうだとすれば、特定の銀行を作為的に発展させる「戦略的ナショナリズム」の立場をとる以外に道はない、ということになる。戦略的ナショナリズムは、はたして社交的な信頼関係の構築と両立するだろうか。

(経済思想)